もしも百景 〔第219回〕

信長と家康を結んだ同盟は、応仁の乱後の下剋上から生まれた

起点: 下剋上の風潮(1477年) ・ 結末: 清洲同盟(1562年) ・ 消滅 22
信長と家康を結んだ同盟は、応仁の乱後の下剋上から生まれた の挿絵(マカミ)

1562年、織田信長と松平元康(のちの徳川家康)が手を結んだ。以後二十年、家康が律儀に守り抜いた清洲同盟である。後の天下人二人を結んだこの盟約の源流を糸でたどると、八十五年前、乱世の空気そのものに行き着く。三手をさかのぼる。

起点は、応仁の乱ののちに列島を覆った下剋上の風潮である。

1477年、十一年に及ぶ応仁の乱が終わると、守護や将軍の権威は現地で通用しなくなり、実力ある者が主君を凌いで取って代わる風潮が各地へ広がった(下剋上の風潮)。この「家格より実力」の空気の中から、北条早雲のように守護の家柄に頼らず、武力と統治の実績だけで領国を築く新しい大名が現れる——戦国大名の登場である(戦国大名の登場)。

各地に割拠した戦国大名は、たがいに領土を削り合った。その争いのさなか、尾張の織田信長が、上洛をめざす今川義元の大軍を桶狭間で奇襲し討ち取る(桶狭間の戦い)。この一戦で今川の駿河支配が緩むと、人質として駿府に押さえられていた松平元康が三河で自立を選び、東の憂いを断ちたい信長と利害が一致した。こうして清洲同盟が結ばれたのである。

データで確かめよう。因果絵巻から「下剋上の風潮」を抜くと、消える出来事は22件。戦国大名の登場も、桶狭間の戦いも、清洲同盟も、川中島の戦いも、信長の上洛も、まとめて道連れになる。揺らぐ出来事は864件に及ぶ。

もし下剋上の風潮がなければ、家格を持たぬ戦国大名も現れず、桶狭間の番狂わせも、そこから生まれた信長と家康の同盟も、まるごと別の形になっていたかもしれない。

「主君を実力で超えてよい」という乱世のルールが、やがて後の天下人二人を巡り合わせ、一つの盟約に結び直す。始まりの無秩序が、次代の秩序を選び抜く——因果の糸は、そんな巡り合わせを静かに書き留めている。

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