住友を財閥に育てた銅山は、家康の貨幣統一から生まれた

1691年、伊予の山中で住友家が別子銅山の開発に着手した。のちに住友の礎となる大鉱山である。この開発を促した需要を糸でたどると、九十年前、天下人の貨幣事業に行き着く。二手をさかのぼる。
起点は、家康が敷いた三貨制度である。
1601年、全国の主要な金銀山を握った家康は慶長金銀を鋳造し、金・銀・銭の三貨からなる統一的な貨幣制度を整えた(三貨制度の整備)。だが金貨と銀貨は整ったものの、日常の少額取引を担う銭貨は、依然として中世以来の輸入銭に頼るしかなかった。そこで幕府は1636年、みずから銭貨を鋳て全国へ供給する道を選ぶ——寛永通宝の鋳造である(寛永通宝の鋳造)。これで三貨はそろい、制度は完成へ向かった。
ところが、銭貨を絶えず刷り続けるには、その原料である銅を安定して確保しなければならない。恒常的な銅需要という土壌があったからこそ、住友家はこれを見込んで別子銅山に大規模な投資を投じ、開発へと踏み切った(別子銅山の開発)。貨幣を鋳るための金属需要が、一つの鉱山を、そして後の巨大商家を育てたのだ。
データで確かめよう。因果絵巻から「三貨制度の整備」を抜くと、消える出来事は3件。寛永通宝の鋳造も、藩札の発行も、別子銅山の開発も、そろって道連れになる。揺らぐ出来事は7件——連鎖は細く、しかしまっすぐ通っている。
もし家康が三貨制度を敷かなかったら——銭貨を国産で統一供給しようという発想も、その原料を求める旺盛な銅需要も生まれず、別子の山が大鉱山として開かれる契機も、違う形になっていたかもしれない。
天下人は、通貨を束ねただけのつもりだった。だがその制度を支える金属への渇望が、遠い山奥の鉱脈を掘り起こし、一商家を大商家へと押し上げていく。制度の完成が、思わぬ産業を呼び込む——因果の糸は、そんな巡り合わせを静かに書き留めている。
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