上杉家を割った後継争いの火種は、三十年前の北条の夜襲だった

1578年、上杉謙信が急死すると、後継の座をめぐって二人の養子——景勝と景虎——が争い、上杉家は真っ二つに割れた。御館の乱である。この内訌の火種を糸でたどると、意外にも上杉の家中ではなく、相模の北条にたどりつく。二手、三十二年をさかのぼる。
発端は、北条氏康が放った夜襲——河越夜戦である。
1546年、河越城を包囲した両上杉・古河公方の連合軍を、北条氏康は夜陰に乗じた奇襲で逆に打ち破った(河越夜戦)。この敗北で関東管領上杉憲政は関東での居場所を失い、越後の長尾景虎を頼って落ち延びる。憲政から関東管領の職と上杉の名跡を譲られた景虎——のちの謙信は、旧領奪還の大義名分を得て、たびたび関東へ兵を進めた(上杉謙信の関東出兵)。
その関東出兵の過程で、謙信は長く争った北条氏と和睦し、その証として北条から養子・景虎を迎える。実子のない謙信の下、この景虎が実子同然に育てられた景勝と並び立ったことが、家督をめぐる対立の芽となった。そして謙信の急死が、その芽を一気に噴き上げさせたのである(御館の乱)。
データで確かめよう。因果絵巻から「河越夜戦」を抜くと、消える出来事は2件。上杉謙信の関東出兵も、御館の乱も、そろって道連れになる。揺らぐ出来事は8件——連鎖は細いが、三十二年をまっすぐ貫いている。
もし河越の夜襲がなければ、憲政は関東に踏みとどまり、景虎に管領の名跡が渡ることも、その関東出兵から北条の養子を迎えることもなかった。上杉家を裂いた後継争いは、まるごと別の形になっていたかもしれない。
一つの城をめぐる夜討ちが、三十年余りの時を越えて、遠い大名家の相続争いに火を放つ。遠い勝敗が、思わぬ家の運命を書き換える——因果の糸は、そんな巡り合わせを静かに書き留めている。
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