もしも百景 〔第212回〕
伊達氏に大部の法典を書かせたのは、守護大名の肥大だった

塵芥集。伊達稙宗が定めた、百七十余箇条にも及ぶ大部の分国法である。戦国大名がみずからの領国を法で律した、その到達点のひとつだ。だが、この浩瀚な法典を書かせた最初の一押しは、伊達家の必要でも稙宗の才覚でもない。一世紀半前の、守護大名の肥大だった。
守護大名の成長(1380年)である。
四手の因果をたどろう。南北朝の動乱を勝ち抜いた守護が、一国規模の軍事力を握るまでに肥大する。その巨大な家の家督争いが将軍の後継争いと結びつき、細川・山名両陣営が全国を二分する応仁の乱を招いた(1467年)。十一年の戦乱で守護や将軍の権威は現地で通用しなくなり、家臣や国人が実力で主家を凌ぐ下剋上の風潮が広がる(1477年)。その風潮の中から、家格に頼らず武力と統治実績で領国を築く戦国大名が現れ(1493年)、分国支配を固める伊達氏が領内の裁判権を握る必要に迫られて、塵芥集の編纂に至った(1536年)。
データで確かめよう。因果絵巻から「守護大名の成長」を抜くと、消える出来事は38件。応仁の乱も、下剋上の風潮も、戦国大名の登場も、朝倉孝景条々も、今川仮名目録も、東山文化も道連れになる。揺らぐ出来事は871件に及ぶ。銀閣の静けさも、町衆による祇園祭の再興も、この一本の糸につながっていた。
もし守護がそこまで肥大しなければ——将軍を巻き込む大乱も、下剋上も、戦国大名の割拠も、そして領国を律する分国法も、まるで別の形をとっていたかもしれない。将軍が力を貸して育てた守護の巨大さが、156年後、東北の地に一冊の法典を書かせた。強くなりすぎた家臣は、いつか主家の秩序そのものを書き換える。
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