沖縄が返ってきたのは、基地を手放さないと決めたからだ

1972年、27年間の米施政権下を経て、沖縄が本土に復帰した。祖国復帰と基地縮小を求めた、長い悲願の達成——そう語られる。だが返還にたどり着いた道を糸で遡ると、性格の違う三本が、同じ一点で固く結ばれている。
一本目は、講和の糸だ。1951年のサンフランシスコ講和条約は、日本を独立させる代わりに、沖縄を本土の主権から切り離して米国の施政権下に置いた。日本が戦後を再出発する、その値札として沖縄が支払われたのである。皮肉なことに、この「切り離し」こそが、後年「返せ」と迫る交渉の出発点になった。切られた糸でなければ、結び直す相手もいない。
二本目は、安保の糸である。同じ1951年の日米安全保障条約は、米軍基地の自由な使用を認める枠組みを敷いた。だから返還交渉で問われたのは「沖縄を返すか」ではなく、「基地の自由使用を保ったまま、施政権だけを返せるか」だった。基地という骨組みは残す——その一点で、日米はようやく折り合った。
三本目は、戦争の糸。1965年からベトナム戦争が本格化すると、出撃基地としての沖縄の軍事的価値は跳ね上がった。ところが同時に、高まる反戦の世論が基地負担への反発を煮つめ、返還要求を後押しする土壌を耕していく。戦争は、沖縄を手放しにくくしながら、手放させる世論もまた育てたのだ。
三本が結ばれたのが、佐藤栄作内閣の締結した返還協定だった。「核抜き・本土並み」という公約を掲げ、1972年、施政権が日本へ戻った。だが糸は結び目で終わらない。ここからは、返還後もなお残る広大な米軍基地が伸び、沖縄海洋博が伸び、やがて首里城正殿の再建へと続いていく。基地負担の沖縄集中という問題も、この結び目から解かれずに垂れたままである。
歴史の大事件とは、要するに糸の結び目のことだ。 沖縄返還も、講和と安保と戦争という、別々の世界を歩いてきた原因たちが一点で出会った瞬間にすぎない。祖国復帰の万歳の下で、返さないという約束もまた、同じ結び目にしっかり編み込まれていた。
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