和同開珎は、富本銭を消しても鋳造される

708年、武蔵国秩父から自然銅が朝廷に献上され、政府は元号を和銅と改めて和同開珎を発行した。日本で本格的に流通を狙った最初の貨幣——そう教科書は記す。手本は天武朝の富本銭。ならば富本銭がなければ、この貨幣も生まれなかったのか。
糸をたぐると、708年の発行には出自の違う三本の糸が束ねられていた。一本ずつ切ってみよう。
もし富本銭の鋳造(683)を消したら——それでも銭は生まれる。天武朝以来の鋳銭技術の蓄積という下地は消える。だが大宝律令の完成(701)が残る。財政と度量衡を国家の手で統一しようとする律令国家にとって、貨幣制度の整備は当然の国家事業だった。技術の記憶が欠けても、制度の要請が銭を求める。
では大宝律令を消したら——それでも生まれる。今度は和同開珎の鋳造(708)、すなわち武蔵国の和銅献上と鋳銭の体制が効く。良質の銅が現に手に入り、鋳銭司に技術者が集められて銭を打てる態勢が整っていた。制度の後ろ盾が薄くても、材料と現場が貨幣を吐き出す。
では鋳造の体制を消したら——それでも生まれる。残った富本銭の技術と律令の財政方針が、別の銅山を探させ、都の造営費を賄う流通銭を構想させる。
技術の蓄積、律令の制度、そして銅と鋳銭の現場。 一つは工人の話、一つは法と財政の話、一つは鉱山と材料の話。畑違いの三つが、たまたま八世紀初頭に出そろい、同じ一枚の銭に収束した。だから発行は消せない。因果絵巻の全1,002件を一つずつ消す実験をしても、和同開珎の発行は一度も消えない。これが歴史の耐震構造だ。
技術と制度と材料は、ふだんは互いに口をきかない。それが八世紀初頭のこの数年だけ、たまたま同じ方向を向いた。もっとも、支えが三本そろっても、普及までは保証されなかった。農村では物々交換が根強く、銭は都の周辺にとどまる。政府は後に蓄銭叙位令まで持ち出して普及を急ぐことになる。三本の柱は「鋳ること」は固く支えたが、「使わせること」には手を貸さなかった。 発行は必然、流通は苦労——貨幣の歴史は、たいていこの順で始まる。
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