自民党と社会党の対立を書いたのは、冷戦である

1955年、左右に分裂していた社会党が統一され、対抗して自由党と日本民主党が合同し自由民主党が生まれた。以後38年、衆議院で自民が三分の二弱、社会党が三分の一を占める保革対立が固定される。国内政治が生んだ日本独特の構図、と括られがちだ。だがこの構図の設計図を引いたのは、東京だけではなかった。
もしサンフランシスコ講和条約(1951)を消したら——それでも起こる。全面講和か単独講和かの対立が保守と革新の政党再編を促した流れは消える。だが冷戦という国際構造が、東西どちらに立つかを日本の政党に迫り続けている。講和の争点がなくとも、二極化の圧力は残る。
では総評の結成(1950)を消したら——それでも起こる。反共の立場で生まれ、講和問題を機に左傾化して社会党の支持基盤となった労働組織は消える。だが冷戦と講和という二つの力が、革新勢力を結集させる磁場を作り続けている。
では冷戦の開始(1947)そのものを消したら——それでも対立の芯は残る。全面か単独かで割れた講和の記憶と、左傾化した総評を基盤とする社会党が、保革の対立軸を国内に描き出す。冷戦がなければ構図はもっと緩やかだったかもしれない。だが対立そのものは消えない。
世界を二分した冷戦、講和を巡る国内対立、革新を支えた労働運動。国際・外交・社会という別々の層の力が、一つの政治構図へ収束した。 どれか一つを外しても、残る二つが保革対立を組み立て直す。
だから消せない。因果絵巻の全1,002件を一つずつ消す実験をしても、55年体制は一度も消えない。三本の柱のうち二本を折っても、残る一本が対立の構図を立て直す。歴史の耐震構造だ。
この体制は1993年まで38年間続き、自民党は単独で改憲発議に必要な三分の二の議席をついに得なかった。「日本的な政治の安定」と呼ばれるこの構図は、実のところワシントンとモスクワが世界を二分した、その縮図だった。国内の対立に見えて、その設計図は海の向こうでも引かれていた。
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