貨幣を全国で統一した家康が、藩ごとの紙幣を生んだ

江戸時代、各藩は「藩札」と呼ばれる独自の紙幣を刷った。使えるのは藩の領内だけ。全国共通の金貨・銀貨・銭貨が幕府の手で整えられていたのに、なぜ地域限定の紙切れが並び立ったのか。糸は一手、六十年さかのぼる。行き着くのは、その全国統一の貨幣制度そのものだ。
天下を統一した、家康の貨幣である。
1601年、全国の主要な金銀山を握った家康は慶長金銀を鋳造し、金・銀・銭の三貨からなる統一的な貨幣制度を敷いた(三貨制度の整備)。戦国の入り乱れた通貨を一本に束ねる、天下人の事業である。のちに寛永通宝も加わり、制度は完成へ向かった。
ところが、ここに落とし穴があった。幕府がいくら良質な貨幣を鋳ても、その現物が全国の隅々まで潤沢に行き渡るとは限らない。金貨は主に東国、銀貨は主に西国で使われ、両替の手間もつきまとう。とりわけ財政の苦しい地方の藩では、年貢米を売って得るべき正貨が思うように手元に回らず、日々の支払いに充てる現金が慢性的に足りなかった。
そこで諸藩が編み出した苦肉の策が、藩札だ。1661年、越前福井藩などが藩内限りで通用する紙幣を刷り、正貨不足の穴を埋めた——藩札の発行である。 統一通貨の不足が、地域通貨を呼び戻したのだ。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「三貨制度の整備」を抜くと、消える出来事は2件。寛永通宝の鋳造も、藩札の発行も、そろって道連れだ。揺らぐ出来事はわずか1件——連鎖は細く、しかしまっすぐ通っている。
もし家康が三貨制度を敷かなかったら——金・銀・銭を軸とする全国の貨幣秩序そのものが無く、その正貨の不足を紙幣で穴埋めしようという発想も、藩の領内だけで通じる札という奇妙な地方通貨も、生まれなかったかもしれない。
天下人は、通貨をひとつに束ねたつもりだった。だがその統一が完全ではなかったからこそ、皮肉にも藩ごとの紙幣という「小さな分裂」が生まれた。統一の不徹底が、次の多様性を用意する——因果の糸は、そんな巡り合わせを静かに書き留めている。
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