もしも百景 〔第120回〕

百姓一揆の作法を教えたのは、年貢を取り立てる仕組みである

起点: 村請制の確立(1591年) ・ 結末: 代表越訴型一揆(1653年) ・ 消滅 1
百姓一揆の作法を教えたのは、年貢を取り立てる仕組みである の挿絵(マカミ)

1653年ごろ、名主が村を代表して領主へじかに年貢の減免を訴え出る——代表越訴型一揆という抵抗の型が現れる(義民・佐倉惣五郎の伝承もこの型だ)。命がけで領主に物申す義民の姿は、権力に立ち向かう民衆の象徴として語り継がれてきた。だが、この「村を代表して訴える」という作法がどこから来たのかをたどると、抵抗とは正反対の、支配の道具に行き着く。年貢を取り立てる仕組みである。

話は太閤検地の時代にさかのぼる。1591年、検地は村を年貢納入の単位と定め、惣村の自治をまるごと徴税のシステムに組み込んだ(村請制の確立)。ここで名主は、村の年貢をとりまとめて領主へ納める代表者の立場を与えられる。村ぐるみで納め、村ぐるみで責任を負う。支配する側にとっては、いちいち百姓一人ひとりと向き合わずに済む、実に効率のよい集金装置だった。

ところが、この「村を代表して領主とやりとりする」役目には、思わぬ裏面があった。納めるために領主と向き合える者は、減らしてくれと領主に迫ることもできる。年貢を運ぶ回路が、そのまま年貢を拒む回路に反転したのだ。名主が村を背負って直訴する代表越訴型一揆は、徴税の代表機能を、そっくり抵抗の型に転用したものだった。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「村請制の確立」を抜くと、消える出来事は1件——代表越訴型一揆、義民が村を代表して立つあの型だけが、消える。揺らぐ出来事は0件。連鎖はここで一本きり。だが、支配の仕組みと抵抗の作法が同じ根から生えているという事実は、数字の派手さよりずっと重い。

もし検地が村を徴税の単位にまとめ上げていなければ。名主が村を代表する立場もなく、その立場を裏返して領主に物申す型も生まれなかった。百姓は、村ぐるみで声を上げる作法そのものを、手にしなかったかもしれない。

支配のために組まれた代表制が、抵抗のための代表制を用意した。年貢を取り立てる仕組みは、百姓に納め方を教えると同時に、逆らい方まで教えてしまったのである。

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