もしも百景 〔第118回〕

長崎を脅かした軍艦も、クリミアの砲火も、震源はナポレオンである

起点: ナポレオン戦争(1799年) ・ 結末: クリミア戦争(1853年) ・ 消滅 3
長崎を脅かした軍艦も、クリミアの砲火も、震源はナポレオンである の挿絵(マカミ)

1853年、黒海のほとりで英仏・オスマンとロシアが激突したクリミア戦争。ナイチンゲールの従軍看護でも知られる、19世紀最大級の国際戦争である。ヨーロッパの覇権争い——そう括られる。だが、その火種を二手さかのぼると、半世紀前に大陸を席巻した一人の男に行き着く。ナポレオンである。

一手目。1799年に実権を握ったナポレオンは、革命防衛の戦争を欧州征服戦争へと膨らませ、各国を次々に巻き込んだ(ナポレオン戦争)。その征服と革命理念の押しつけへの反発が、彼を倒したあとの列強を団結させる。1815年、勝者たちは正統主義を掲げて旧秩序を復活させ、勢力均衡でヨーロッパを凍りつかせた——ウィーン体制である。皮肉にも、ナポレオンという劇薬が、四十年ぶんの「平和」を処方させた。

二手目。だがこの平和には穴があった。列強は均衡の維持を最優先し、弱りきったオスマン帝国をどう分けるかという難問を、あいまいなまま先送りした。その空白へロシアが南下し、英仏と正面衝突する。ウィーン体制が塞いだはずの火種が、クリミアで噴き出したのだ。

そしてこの同じナポレオン戦争は、極東にも一発撃ち込んでいた。母国オランダをナポレオンに占領された隙を突き、英国の軍艦フェートン号が1808年、オランダ船を装って長崎港へ乱入する(フェートン号事件)。ヨーロッパの戦火が、地球の裏側の鎖国の港まで届いた瞬間だった。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「ナポレオン戦争」を抜くと、消える出来事は3件。クリミア戦争も、ウィーン体制も、そして長崎を震え上がらせたフェートン号事件も——まとめて消える。揺らぐ出来事は504件。

もしナポレオンが欧州を焼かなければ。列強が身構えて平和を敷くこともなく、その平和のほころびがクリミアで戦争に化けることもなく、長崎に英国艦が現れることもなかった。

一人の征服者が起こした戦争は、倒れたあとも余熱を放ち続けた。その熱は西でクリミアの砲火となり、東では長崎の港をあぶったのである。

▶ 再現: https://inga-emaki.bucket-co.workers.dev/inga-emaki.html#if=napoleon