もしも百景 〔第96回〕

赤痢菌を見つけたのは、富岡製糸場である

起点: 殖産興業(富岡製糸場)(1872年) ・ 結末: 赤痢菌の発見(1897年) ・ 消滅 6
赤痢菌を見つけたのは、富岡製糸場である の挿絵(マカミ)

1897年、志賀潔が赤痢菌を発見した。日本人が世界に先駆けて病原菌を突き止めた快挙であり、細菌学の勝利として語りたくなる。だがこの発見の源流をデータで遡ると、顕微鏡でも試験管でもないものに行き着く。生糸を吐く蚕と、それを繰る器械である。

官営の製糸場だ。

1872年、明治政府は殖産興業に乗り出す。目玉が群馬の官営・富岡製糸場だった。輸出品の花形である生糸を器械で量産し「富国」の土台を築く——ところが肝心の器械製糸の技術が、国内にまだ無い。そこで政府はフランス人技師を筆頭にお雇い外国人を招いた。大臣を上回る破格の給料である。

彼らが持ち込んだのは製糸の技だけではなかった。医学や理学を含む西洋の学問体系そのものだ。器械を据えるついでに、学問の土壌ごと運び込んだと言ってもいい。その教育の恩恵を受けた留学生がドイツで細菌学を修めて帰国する。北里柴三郎である。北里は私立の伝染病研究所を興し(1892)、後進を育てた。そしてその弟子・志賀潔が、研究所の設備と培養技術を武器に、赤痢患者の便から病原菌を分離してみせた(1897)。当時、赤痢は流行を繰り返しながらも病原体が特定できず、有効な手立ての定まらない厄介な病だった。その正体を初めて捉えた発見である。

富岡の生糸→お雇い外国人→伝染病研究所→赤痢菌。 三手、二十五年。産業政策の一手が、医学の最前線まで一直線に届く。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「殖産興業(富岡製糸場)」を抜くと、消える出来事は6件。お雇い外国人の招聘も、伝染病研究所も、赤痢菌の発見も、ガラ紡の普及も、日本地震学会の創設も、野口英世の細菌学も——まとめて姿を消す。揺らぐ出来事は54件に及ぶ。

もし富岡が建たなかったら。器械製糸の技術不足に直面する官営工場が無く、外国人技師を高給で呼ぶ動機も薄れ、西洋医学の土台が根を張るのも遅れ、北里の研究所も志賀の顕微鏡も、舞台ごと立ち上がらなかったかもしれない。

生糸を売って国を富ませる政策が、めぐりめぐって病原菌を捕える顕微鏡を据えた。産業と医学は無縁に見えて、明治日本では一本の糸でつながっている。富岡の煙突と、赤痢菌の載ったプレパラート。見た目は似ても似つかぬが、因果の血筋は平然と両者を親子にしてしまうのだ。

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