もしも百景 〔第95回〕

日本の映画産業は、どこから来たか——新橋発、横浜行きである

起点: 文明開化と鉄道開業(1872年) ・ 結末: 日活設立と映画産業化(1912年) ・ 消滅 8
日本の映画産業は、どこから来たか——新橋発、横浜行きである の挿絵(マカミ)

1912年、複数の興行・製作会社が合同して日本活動写真、通称日活が生まれた。撮影所を構え、俳優や監督を専属で抱え、映画を自前で量産する。見世物の一演目にすぎなかった活動写真が、独立した産業へと脱皮した瞬間である。映画好きの興行師たちが育てた文化——そう言いたくなる。だが、その産業の遠い起点にあるのは、フィルムでもスクリーンでもない。

一本の鉄道である。

1872年、英国人技師の指導で新橋・横浜間に日本初の鉄道が走った。文明開化のただ中、都市にはガス灯が灯り、暦は太陽暦に改まり、散髪と洋装が奨励される。この洋風の見世物や娯楽を抵抗なく受け入れる空気が、社会に根を張った。だからこそ、1897年に活動写真が輸入されても、都市はこれを珍奇な異物として拒まず、新手の娯楽としてすんなり呑み込んだ。そして活動写真の人気が過熱し、輸入フィルムだけでは需要を満たせなくなったことが、興行会社の統合を促し、日活設立へ直結する。二手、四十年。汽笛が呼び込んだ洋風の気分が、めぐって映画という産業を立ち上げたのだ。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「文明開化と鉄道開業」を抜くと、消える出来事は8件。活動写真の渡来も、日活設立も消えるのは道理として、『学問のすゝめ』も、電信網も、電灯も、水力発電も、そして牛鍋の流行も、あんぱんの誕生までもが道連れになる。揺らぐ出来事は62件。文明開化とは、それほど広く根を張った一手だった。

もし新橋・横浜に汽車が走らず、洋風の風潮が根づかなかったら。輸入された活動写真は都市になじめず、観客も膨らまず、興行会社を統合へ追い込むほどの熱も生まれない。日活という産業組織は、立ち上がる理由を持たなかった。日本映画のスクリーンは、あの汽車の煙の上に映っている。

牛鍋をつつき、あんぱんを頬張り、活動写真に沸く——文明開化とはつまり、この「新しもの好き」の空気そのものだった。その空気が娯楽を娯楽で終わらせず、産業にまで押し上げた。日本映画のルーツを問われたら、こう答えたい。新橋発、横浜行きの一番列車である、と。

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