もしも百景 〔第93回〕

金剛力士像を彫らせたのは、皇位をめぐる内輪もめだった

起点: 保元の乱(1156年) ・ 結末: 東大寺再建と金剛力士像(1203年) ・ 消滅 10
金剛力士像を彫らせたのは、皇位をめぐる内輪もめだった の挿絵(マカミ)

東大寺南大門で、参拝者を見下ろす二体の巨像。運慶・快慶ら慶派の仏師が刻んだ金剛力士像は、筋肉も血管も怒りもみなぎる、日本彫刻史の頂点である。仏の加護がこの傑作を呼んだ——そう拝みたくなる。だが因果をたどると、あの隆々たる筋肉のおおもとにあるのは、信仰でも美でもない。

皇室と摂関家の、みっともない内輪もめである。

1156年、皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、摂関家の藤原忠通・頼長兄弟の争いが重なり、双方が武士を動員して激突した——保元の乱だ。ここから因果は将棋倒しに倒れていく。勝者側の平清盛と源義朝が恩賞で反目し平治の乱へ→義朝を討った清盛が対抗馬を失って太政大臣へ昇りつめ→平氏が高官を独占して他者の道を塞ぎ、その不満が以仁王の令旨と源平合戦を呼ぶ。 そしてこの挙兵の余波、平重衡による南都焼討ちで、東大寺の伽藍が灰燼に帰す。焼け落ちた大伽藍を建て直す——その巨大な再建需要こそが、運慶らに写実の新様式を試みさせ、金剛力士像を生んだのだ。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「保元の乱」を抜くと、消える出来事は10件。平治の乱も、清盛の太政大臣も、治承三年の政変も、以仁王の令旨も、富士川・倶利伽羅峠・一ノ谷・屋島の合戦も、そして東大寺再建と金剛力士像も——源平の物語がまるごと道連れになる。揺らぐ出来事は754件、絵巻がまるで地滑りを起こす。四手、四十七年。皇位争いの火種が、仁王像の筋肉一本まで押し流していく。

もし保元の乱がなかったら。武士が政争の決着役として担ぎ出されることもなく、清盛の栄華も、源平の戦火も、南都焼討ちも起きない。東大寺は焼けず、焼けなければ再建もなく、再建がなければ、あの新様式が試される舞台そのものが立ち上がらなかった。金剛力士像は、燃えなかった伽藍の中で、永遠に彫られずにいたかもしれない。

外国の観光客が南大門で仁王像を見上げ、その迫力に息を呑むとき。ぜひ教えてあげてほしい。この筋肉を彫らせたのは、八百五十年前の、皇位をめぐるみっともない兄弟げんかなのだと。破壊が創造を呼ぶ——歴史はしばしば、焼け跡の上に最高傑作を立てる。

▶ 再現: https://inga-emaki.bucket-co.workers.dev/inga-emaki.html#if=hogen