もしも百景 〔第92回〕

薬害エイズの被害者は、水俣で闘い方を学んでいた

起点: 四大公害と対策基本法(1967年) ・ 結末: 薬害エイズ問題(1996年) ・ 消滅 3
薬害エイズの被害者は、水俣で闘い方を学んでいた の挿絵(マカミ)

1996年、薬害エイズ問題は大きな節目を迎えた。血友病患者の治療に使われた非加熱血液製剤にHIVが混入し、被害が広がった事件で、厚生大臣が原告団に直接頭を下げ、国と製薬会社双方の責任を認める和解が成立する。被害者たちが国家と巨大企業を相手取り、謝罪を勝ち取った——強い当事者運動があったのだ、で終わらせたくなる。だが、その「闘い方」には手本があった。

四大公害である。

1967年、高度成長のひずみとして水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくが噴き出し、政府は公害対策基本法を制定した。ところがこの法には「経済調和条項」が残り、企業責任の追及に正面から踏み込まなかった。この及び腰が患者たちの行政不信を深め、彼らは行政ではなく司法の場へ——水俣病訴訟(1969年)へと向かう。そこで鍛え上げられたのが、患者・弁護団・支援者が三位一体で闘う運動の型だった。この型が、二十数年後、血友病患者の被害者団体へ受け継がれる。水俣で組み上げられた闘争の設計図が、薬害エイズの原告団に流用されたのだ、とみる説は有力である。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「四大公害と対策基本法」を抜くと、消える出来事は3件。水俣病訴訟と患者運動も、公害防止技術(1972年)も、薬害エイズ問題も——まとめて姿を消す。揺らぐ出来事は2件。二手、二十九年で、公害病の告発が薬害の和解へと橋を架ける。

もし公害対策基本法が経済との調和などとためらわず、企業の責任を真正面から書き込んでいたら。患者は行政を信じ、法廷へ持ち込まなかったかもしれない。すると水俣病訴訟で磨かれた闘争の型も生まれず、それを受け継ぐべき薬害エイズの原告団は、闘い方を一から探すことになったろう。

法律の一つの弱腰が、皮肉にも、後の被害者たちに最強の武器を残した。踏み込みの甘さが不信を生み、不信が訴訟を生み、訴訟が型を生む。日本の被害者運動の系譜は、行政の逃げ腰から始まっているのだ。

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