もしも百景 〔第78回〕

蘇我氏の専横は、一体の仏像から始まった

起点: 仏教公伝(538年) ・ 結末: 蘇我蝦夷・入鹿の専横(626年) ・ 消滅 9
蘇我氏の専横は、一体の仏像から始まった の挿絵(マカミ)

7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿の父子は、天皇家をも軽んじる専横をきわめた。臣下の分を越えた権力の暴走——そう教科書は書く。だが、その驕りの根を二手さかのぼると、武力でも陰謀でもない、一つの信仰に行き着く。

538年に海を渡ってきた、仏である。

百済の王が倭に軍事協力を求め、仏像と経典を朝廷に贈った。これが仏教公伝。ところが、この新しい信仰を国家として受け入れるかどうかで、朝廷は真っ二つに割れる。渡来の技術と権威を仏に見た崇仏派の蘇我氏と、在来の神々への信仰を重んじる排仏派の物部氏・中臣氏。単なる信仰論に見えて、その裏には朝廷の主導権をめぐる豪族の勢力争いが張りついていた。宗教論争はやがて武力衝突に発展し、587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼす。勝者の蘇我氏は、敗者の勢力基盤をまるごと接収し、権力を一手に集めた。

そこから先は、坂を転がるようだ。対抗勢力を消して朝廷の実権を握った蘇我氏の力が、世代を経て蝦夷・入鹿に受け継がれる→歯止めを失う→天皇家をも軽んじる専横へと肥大する(626)。 わずか二手、八十八年。海を渡ってきた一体の仏から、飛鳥を揺るがす専横まで、因果は一本につながる。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「仏教公伝」を抜くと、消える出来事は9件。物部氏との合戦も、推古天皇と厩戸皇子の摂政も、冠位十二階も、十七条の憲法も、暦法・製紙の伝来も、乙巳の変も——そして蘇我氏の専横も、まとめて姿を消す。揺らぐ出来事は実に858件に及ぶ。

もし仏が伝わらなかったら。崇仏か排仏かという争点そのものが生じず、蘇我氏が物部氏を倒す口実もなく、権力を一手に握る足場も築けなかった。蝦夷・入鹿が驕るための土台そのものが、この世に立ち上がらなかった。

仏教といえば、慈悲と鎮護の教えである。だがその公伝は、日本に信仰をもたらすと同時に、豪族の権力闘争に格好の火種を投げ込んだ。合掌のかたわらで、政争が加速する。飛鳥を揺るがした蘇我氏の専横は、皮肉にも、海を渡ってきた一体の仏の遠い落とし子だったのだ。

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