もしも百景 〔第72回〕

宮古島民の悲劇は、260年前の「どっちつかず」が仕込んでいた

起点: 琉球の日明両属体制(1611年) ・ 結末: 琉球漂流民殺害事件(1871年) ・ 消滅 1
宮古島民の悲劇は、260年前の「どっちつかず」が仕込んでいた の挿絵(マカミ)

1871年、台湾南部に漂着した宮古島の年貢船の乗員54人が、現地の人々に殺害された。琉球漂流民殺害事件——のちの台湾出兵の引き金になる事件である。悲劇の原因を問えば、遭難と異文化の衝突、で話は終わりそうに見える。

だが因果絵巻でこの事件の一手前をたどると、火種はずっと古い。琉球の日明両属体制、実に260年も前に置かれている。

1611年、薩摩は琉球を武力で従えながら、あえて王国の体裁を残した。なぜか。明との進貢貿易の利を、手放したくなかったからだ。琉球を日本にも中国にも属する形——両属にしておけば、薩摩は琉球を通じて大陸の富を吸える。土地の実権は握り、名義は曖昧に残す。いわば一国まるごとの「二重帳簿」である。

このスキームには、静かな副作用があった。日中いずれの属国とも明確に定めないという前提が、琉球船の乗員の国籍と、その保護責任を長く宙吊りにしたのだ。彼らはどの国の民で、いざというとき誰が守るのか——誰も答えを持たないまま、260年が過ぎた。そして遭難が起きたとき、その空白がそのまま紛争の火種になる。曖昧さは、利益を生んでいる間はうまく回る。破綻するのは、決まって想定外の一撃を受けたときだ。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「琉球の日明両属体制」を抜くと、消える出来事はただ1件——琉球漂流民殺害事件そのものである。揺らぐ出来事は8件。派手な連鎖ではない。だが1手・260年という、この絵巻でも指折りの「細く長い糸」が、両者を確かに結んでいる。連鎖の数ではなく、時間の深さで効いてくる因果だ。

もし薩摩が両属という小細工をせず、琉球の帰属を早々に定めていたら。宮古島民の国籍が宙に浮くこともなく、この事件は起こらなかったかもしれない。

目先の貿易益のために残した一片の曖昧さが、260年の時を超えて54人の命に届く。歴史の帳尻は、ずいぶん気の長い取り立て人が合わせにくるものらしい。

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