もしも百景 〔第64回〕

由井正雪の乱を招いたのは、豊臣家の滅亡である。

起点: 大坂の陣で豊臣氏滅亡(1615年) ・ 結末: 慶安の変(由井正雪の乱)(1651年) ・ 消滅 7
由井正雪の乱を招いたのは、豊臣家の滅亡である。 の挿絵(マカミ)

1651年、慶安の変。軍学者の由井正雪が牢人たちを糾合し、江戸・駿府・大坂で同時に蜂起する計画を立てた。密告で露見し正雪は自害するが、太平の世に走った不穏な亀裂として名高い。牢人の不満が生んだ事件、と教科書は言う。

では、その牢人の群れはどこから湧いたのか。因果絵巻をたどると、源は意外にも三十六年前の豊臣家の滅亡にある。

1615年、大坂夏の陣。家康は方広寺の鐘の銘を口実に大坂城を攻め、秀頼と淀殿を自害に追い込み、豊臣氏を滅ぼした。徳川に対抗しうる最後の勢力が消える。その直後、幕府は諸大名が二度と武力で盾突かぬよう、城の無許可修築を禁じ、婚姻を許可制にする武家諸法度を発した。

ここに落とし穴があった。法度は違反した大名を容赦なく改易——取り潰す。跡継ぎのない家も、些細な失態を犯した家も、次々と取り潰された。取り潰された家に仕えていた侍たちは、主を失って路頭に迷う。刀は持っているが、禄はない。豊臣を消した安心が、大量の牢人を生む装置に化けたのだ。行き場をなくした彼らの不満が三十六年かけて江戸市中に溜まり、由井正雪という軍学者がそこに火をつけた。

データの裏取り。「大坂の陣で豊臣氏滅亡」を抜くと、消える出来事は7件。武家諸法度も慶安の変も、参勤交代の制度化も、玉川上水の開削も、明暦の大火も、江戸が百万都市になったことも、長屋と銭湯の暮らしも——江戸という都市の骨格が、まるごと道連れになる。揺らぐ出来事は568件にのぼる。

もし秀頼が滅ぼされず、豊臣の名が一大名として残っていたら。徳川はこれほど性急に締めつける法度を要さず、牢人はあふれず、江戸の水道も長屋も、別の顔で立ち上がっていただろう。

天下人の一族を消せば、天下は安定する——そう考えた家康の一手が、めぐりめぐって太平の裂け目を用意した。敵を根絶やしにした徹底ぶりが、そのまま牢人という新たな火種を量産する原動力に変わったのだ。歴史は、勝ちすぎた者にきっちり請求書を回すものらしい。

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