北海道の和人社会は、津軽の一港が押し出した

北海道に和人——本州から渡ったヤマトの人々——が根を下ろしたのはいつか。多くの人は松前藩や江戸時代の開拓を思い浮かべるだろう。だが因果絵巻をさかのぼると、その最初の一歩は、海の向こうの一港の繁栄に押し出されていた。
十三湊である。
鎌倉から室町にかけて、津軽の豪族・安藤氏は幕府から蝦夷管領の地位を認められ、日本海交易網の要衝である十三湊を拠点に、蝦夷地との交易を一手に握っていた。港に集まる産物は昆布、毛皮、鷲羽と多岐にわたり、諸国の船が出入りして安藤氏は莫大な富を蓄えた。
この繁栄そのものが、次の一手を呼ぶ。
北方交易がもたらす利益の大きさは、津軽の和人商人たちの目にも眩しく映った。昆布も毛皮も、本州へ運べば確かな銭になる。彼らは渡島半島へと海を渡り、館を築いて移り住みはじめる。15世紀に安藤氏が内紛で勢力を落とすと、その空白を埋めるように蠣崎氏をはじめとする和人領主層が道南へ本格的に進出し、道南十二館と呼ばれる居館群を各地に築いて定住を進めた——和人の道南進出(1400)である。港には本州各地からの商人も出入りし、交易の主導権は、津軽の安藤氏から道南の和人へと静かに移っていった。一方で土地と交易をめぐるアイヌとの接触も増え、緊張が少しずつ高まっていく。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「十三湊と安藤氏」を抜くと、消える出来事は1件、和人の道南進出そのものだ。加えて7件が揺らぐ。コシャマインの戦いも、シャクシャインの戦いも、松前藩の商場知行制も——北海道史の骨格をなす出来事が、根元を抜かれてぐらつく。ひとつの湊の富が、北の島の数百年を動かしていたのだ。
もし十三湊があれほど栄えていなければ、和人が海を渡る動機は乏しく、道南の館も築かれなかったかもしれない。
北海道の玄関口といえば今は函館だが、和人社会に産声を上げさせたのは、対岸の津軽にあった一つの港の賑わいだった。人の移住は、いつも「隣の豊かさ」に引き寄せられて始まる。百年の時差を置いて、富は海を渡るのである。
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