もしも百景 〔第56回〕

世界遺産・法隆寺は、廃仏毀釈の後片付けから生まれた

起点: 古社寺保存法の制定(1897年) ・ 結末: 世界遺産の初登録(1993年) ・ 消滅 2
世界遺産・法隆寺は、廃仏毀釈の後片付けから生まれた の挿絵(マカミ)

世界遺産。日本が誇る国際ブランドで、法隆寺も姫路城も、いまや世界の宝として観光客を集める。だがこの栄光の出発点を因果絵巻でたどると、華やかさとは正反対の光景に行き着く。打ち壊された仏像とお堂の山である。

明治維新の神仏分離令をきっかけに、全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。寺は取り潰され、仏像は薪にされ、由緒ある宝物が二束三文で海外へ流出していく。かつて信仰の中心だった大寺すら、屋根の落ちるにまかせて放置された。この惨状を前に、政府はようやく重い腰を上げた。1897年、荒れ果てた社寺の建造物と宝物を国が調査・指定し、修理のための保存金を交付する——古社寺保存法である。お雇い外国人フェノロサらによる古美術の再評価も後押しした、日本初の本格的な文化財保護制度であり、後の国宝指定制度の原型となった。

ここから先を、因果絵巻は一手ずつ追う。

この枠組みは半世紀後、法隆寺金堂の壁画焼損という痛恨の事件を契機に大きく作り直される。1950年、対象を建造物や美術工芸品から無形の技能にまで広げた文化財保護法が制定された。国内の保護制度がここで包括的に体系化される。そしてこの国内基盤の上に、日本はようやく世界遺産条約を批准。1993年、法隆寺地域の仏教建造物と姫路城が、記念すべき最初の世界遺産に登録された。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「古社寺保存法の制定」を抜くと、消える出来事は2件。文化財保護法も、世界遺産の初登録も、道連れに消える。揺らぐ出来事はゼロ——つまりこの2件は、まるごと古社寺保存法の子孫なのだ。

もし廃仏毀釈があれほど徹底していなければ、国が保護に乗り出す動機も鈍かったかもしれない。皮肉なことに、仏を壊した時代が、仏を守る制度を生んだのである。

世界遺産のパンフレットには、条約の批准年こそ書いてあっても、その96年前に打ち壊された仏像のことは書かれていない。だが法隆寺があの荘厳な姿で世界に登録された背景には、明治の破壊への深い反省が横たわっている。守る仕組みは、失いかけた痛みからしか生まれないのかもしれない。

▶ 再現: https://inga-emaki.bucket-co.workers.dev/inga-emaki.html#if=koshaji