明暦の大火は、桶狭間の奇襲から始まった

1657年、江戸を業火が包んだ。市街の大半を焼き、江戸城の天守まで灰にした明暦の大火。振袖火事とも呼ばれるこの災害の死者は数万にのぼる。火元も出火原因もいまだ諸説あるが、なぜ火が「あれほど」燃え広がったのか——その問いをさかのぼると、九十七年前、尾張の田んぼで起きた奇襲戦にたどり着く。
桶狭間の戦いである。
1560年、織田信長が今川義元を討つ。東の脅威が消え、信長は義昭を奉じて上洛し(1568)、天下布武へ突き進む。だが急拡大と強引な統制が家臣の反発を招き、本能寺に斃れる(1582)。その混乱を突いて中国大返しで駆け戻った秀吉が、体制を整えられぬ光秀を山崎に破り、後継の座を奪う。
そこからは将棋倒しだ。秀吉の天下統一(1590)→関ヶ原(1600)→江戸幕府の成立(1603)→大坂の陣で豊臣氏滅亡(1615)→武家諸法度→参勤交代の制度化(1635)。 家康・家光は大名の力を削ぐため、隔年で江戸と国元を往復する義務を課した。かくして諸大名の屋敷と家臣団が江戸に集中し、木造家屋がびっしり密集する巨大都市ができあがる。燃えるものを、これでもかと敷き詰めた街——そこへ火が放たれた。十手、九十七年である。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「桶狭間の戦い」を抜くと、消える出来事は33件。本能寺の変も、秀吉の天下統一も、関ヶ原も、江戸幕府の成立も、参勤交代もまとめて消える。揺らぐ出来事は616件。信長の最初の一手が倒れれば、その後の百年が丸ごとぐらつくのだ。
もし今川義元が桶狭間で討たれなかったら。信長の飛躍はなく、秀吉も家康も表舞台に立たず、参勤交代で江戸に人が詰め込まれることもなく、あれほど燃えやすい都市そのものが存在しなかった。
奇襲戦と大火事。片や戦国の華々しい下剋上、片や泰平の世の惨事である。だが因果の糸は、義元を斃した一本の槍から、江戸を舐めつくした炎まで、一続きにつながっている。歴史は、勝ち戦のツケを、百年後の別の場所で払わせることがある。
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