受領が任国を食い物にできたのは、重すぎる税のせいである

平安中期、地方に赴任した国司の筆頭——受領は、任国の富を我がものにできた。「受領は倒るる所に土をもつかめ」と評されるほど貪欲に収奪し、私腹を肥やす者もいた。地方政治の腐敗、と教科書は言う。だが、そもそもなぜ受領がそんな立場に立てたのか。糸をたどると、二百七十九年前に定められた、いたってまじめな税制に行き着く。
租庸調と雑徭である。
701年、律令が班田農民に租・庸・調と労役の雑徭を課した。国家財政を支える正攻法だが、負担が重すぎた。逃れたい農民は戸籍をごまかす——男を女と偽り、年齢を書き換え、課税対象から消える。偽籍である。これが広がると、人を単位に税を取る仕組みそのものが崩れた(900)。
政府は方針を切り替える。人ではなく田地を「名(みょう)」という単位にまとめ、耕作を請け負う田堵に納税させる負名体制(950)だ。徴税の的が人から土地へ移ると、その権限は現地に赴任する国司の筆頭へと集中する。こうして受領は、任国の富を丸ごと握る立場を手に入れた(980)。三手、二百七十九年である。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「租庸調と雑徭の負担」を抜くと、消える出来事は5件。浮浪・逃亡の増加も、公出挙の重圧も、偽籍と戸籍制の崩壊も、負名体制も、そして受領の徴税請負も——律令の税をめぐる連鎖が根こそぎ消える。消えるのはこの5件だが、揺らぐ出来事は787件にのぼる。絵巻のほぼ全体が、この重税ひとつの上でかすかに震えているのだ。
もし租庸調と雑徭が課されなかったら。逃れる動機がなく、偽籍も戸籍崩壊もなく、負名体制へ切り替える必要もなく、受領が任国を掌握する舞台そのものが生まれなかった。
まじめに税を取ろうとした律令国家が、逃げる知恵を育て、その逃げ場をふさぐうちに、地方を私物化する受領を生んだ。取り立ての正義が、二百八十年かけて取り立ての腐敗へ化ける——徴税の歴史とは、たいていこういう皮肉の連なりである。
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