徳川の平和外交は、後醍醐天皇の失敗から生まれた

1636年に始まった朝鮮通信使——将軍の代替わりを祝う、江戸時代の平和外交の華である。その大本をたどると、意外にも一度きりで挫折した、ある天皇の理想に行き着く。
建武の新政(1334年)である。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、武家に頼らぬ天皇親政を復活させた。理念は高い。だが恩賞も所領安堵も公家ばかりが優遇され、命を懸けて戦った武士の不満が溜まっていく。「今の都に流行るもの、夜討・強盗」と当時の落書に皮肉られた混乱ぶりである。この「別の理念」で立った政権のつまずきが、以後300年の連鎖の、最初の一押しになる。武家の世を否定した政権こそが、次の武家の世を呼び込んだのだ。
一手ずつ倒れていく。武士の不満を背に足利尊氏が離反して室町幕府を開く→南北朝の分立→内乱を戦う中で守護大名が育つ→応仁の乱→下剋上→戦国大名の登場→桶狭間→信長の上洛→本能寺の変→山崎で秀吉台頭→天下統一→恩賞の地を求めて朝鮮出兵→断絶した国交を対馬が回復(己酉約条)→その上に通信使。14手、302年。皮肉なのは、行き着く先が戦(朝鮮出兵)そのものではなく、その戦で壊れた国交を繕い直す平和外交だったことだ。
データで裏取りを。因果絵巻から「建武の新政」を抜くと、消える出来事は59件。足利尊氏の離反も、応仁の乱も、太閤検地も、関ヶ原も、江戸幕府の成立も、参勤交代も消える。武家の世のほぼ全域が、この一つの失敗した親政の上に乗っていたのだ。
もし後醍醐天皇の理想が武士をも満足させていたら。足利政権は生まれず、南北朝の分裂も、戦国も、秀吉の統一も、朝鮮への出兵もなかったかもしれない。恩賞の配り方をわずかに誤った——ただそれだけの一手が、めぐりめぐって、二百年後の海を越えた戦争を呼び、さらにその戦争がこじらせた国交を繕う和解の行列にまでつながった。歴史は、成功だけでできているわけではない。
うまくいった政策より、みごとに失敗した理想のほうが、ときに長く尾を引く。理想の挫折もまた、確かに歴史を動かす一手なのである。
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