藤原全盛をつくったのは、天皇の親衛隊である

藤原道長。「この世をば我が世とぞ思ふ」と詠み、四人の娘を天皇の后に送り込んで栄華を極めた、摂関政治の代名詞である。だがこの絶頂を用意した最初の一手は、藤原氏の策謀ではない。天皇自身が、自分の権力を守るために作った仕組みだった。
薬子の変と蔵人所の設置(810年)である。
平城上皇が寵愛する藤原薬子らの勧めで平城京への再遷都を企て、弟の嵯峨天皇と鋭く対立した。先手を打って上皇方を制した嵯峨は、機密文書を扱い天皇の意志を直に実行する側近ポスト「蔵人所」を新設する。命令が藤原氏の手を経ずに現場へ届く、天皇親政の強化装置——つまり臣下を出し抜くための道具だったはずである。
ところが、である。天皇のそば近くに仕えるこの要職が、いつしか藤原北家の指定席になった。良房はこの地位を足場に、応天門の変(866年)で伴氏・紀氏ら他氏を策謀で退け、臣下でありながら摂政の座に就く。天皇の親衛隊が、そっくり乗っ取られたのだ。
あとは早い。幼帝の外戚として摂政に就く先例が藤原氏の家業となり、150年後、道長の代で娘を次々入内させる外戚戦略が完成形に達した。嵯峨がまいた種を、道長が刈り取ったのである。
データが裏付ける。因果絵巻から「薬子の変と蔵人所の設置」を抜くと、消える出来事は5件。道長の全盛はもちろん、応天門の変も、菅原道真の左遷も、白河上皇の院政開始も消える。皮肉なことに、藤原全盛への反動として始まったはずの院政すら、道連れになるのだ。
もし嵯峨天皇が蔵人所を置かなければ。藤原氏は権力の中枢へ上る階段を、一段まるごと失っていた。天皇が自らの手で握ろうとした実権は、その握るための道具ごと、静かに隣の一族へ寄っていったのである。道長が「望月の欠けたることもなし」と満ち足りて見上げた夜空は、二百年前、ある天皇が自分を守るために掲げた小さな灯りの、遠い延長線上にあった。
権力の椅子というものは、それを守るために増やしたはずの椅子から、いつのまにか奪われる。
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