藤原道長の栄華は、十年で捨てた都がお膳立てした

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の……」。藤原道長、栄華の絶頂で詠んだとされる望月の歌。四人の娘を天皇や皇太子の后に送り込み、外祖父として権力を独占した、平安貴族の勝者中の勝者である。
その勝利の助走路を因果絵巻でたどると、意外な場所から始まっている。十年で見捨てられた、幻の都である。
784年、桓武天皇は長岡京へ遷都した。前年に手を打った意図ははっきりしている。道鏡事件で政治に深く食い込んだ仏教勢力を、平城京の寺ごと振り切ることだ。ところが造営責任者・藤原種継が暗殺され、桓武の弟・早良親王を巻き込む政変が起き、さらに洪水が追い打ちをかける。都には祟りの噂が渦巻き、長岡京はわずか十年で放棄された。——新都建設としては、まぎれもない失敗である。だがこの失敗こそが、桓武を「もっと安定した土地へ」と駆り立て、平安京遷都(794)を生んだ。転んだ勢いのまま、次の一歩が出たのだ。
ここから先は、政争の連鎖だ。桓武の死後、二所朝廷の対立が薬子の変(810)として火を噴き、勝った嵯峨天皇が天皇側近の要職「蔵人所」を新設する。この蔵人所という椅子を、藤原北家がまるごと独占した。彼らはその地位を足場に応天門の変(866)で伴氏・紀氏を策謀で退け、幼帝の外戚として摂政に就くという必勝パターンを確立する。それを家業として何代も磨き上げ、最も徹底した形で結実させたのが——道長の望月なのだ。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「長岡京遷都」を抜くと、消える出来事は7件。平安京遷都はもちろん、薬子の変も応天門の変も、菅原道真の左遷も消える。そして望月の歌の主、藤原道長の摂関全盛も、その先の白河院政も、静かに盤上から降りていく。
もし長岡京がうまくいっていたら、都は今の京都ではなく、大阪府寄りのどこかにあり、平安京という名も、その語感がまとう千年の雅も、歴史に生まれなかった。栄光の陰には、たいてい誰かの派手な失敗が埋まっている。捨てられた都の礎の上にこそ、道長の望月は昇ったのである。
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