日本の文人画を育てたのは、活字印刷の挫折だった

池大雅と与謝蕪村が大成した文人画。中国の士大夫にならった高雅なこの絵画が日本に根づいた道をデータで遡ると、絵とは無縁の、印刷技術のつまずきに行き着く。
活字印刷と嵯峨本である。
17世紀初頭、京で美麗な活字本・嵯峨本が刊行された(1608年)。だが一字ずつ活字を組む方式は手間がかかり、同じ版を刷り続ける量産には向かない。その非効率が意識されると、板木を一枚彫ってしまえば繰り返し刷れる整版印刷が主流として広まり、出版業が本格的に立ち上がった(整版印刷と出版業、1650年)。
活字印刷と嵯峨本→整版印刷と出版業→大雅・蕪村と文人画。 二手、百五十二年。整版の発達は、中国の画譜や画論を安価な出版物として世に広めた。実際に海を渡って大陸を訪れなくとも、書物を通じて中国絵画の手本を学べる土壌が整ったのである。この下地のうえに、大雅や蕪村が独学で文人画を大成したとみる説が有力である(1760年)。
各手をつなぐのは、「刷る技術が、学ぶ手段を変えた」という一点だ。美しいが量産に向かない嵯峨本が整版に道を譲り、安く大量に刷れる整版が画譜を人びとの手に届かせ、その画譜が独学の画家を育てた。
データで確かめよう。因果絵巻から「活字印刷と嵯峨本」を抜くと、消える出来事は4件。咄本と笑いの文化も、整版印刷と出版業も、貸本屋の普及も、大雅・蕪村と文人画も、まとめて姿を消す。揺らぐ出来事は578件に及ぶ。
面白いのは、嵯峨本が量産に向かず主流を譲ったからこそ、次の技術が花開いたことだ。もし活字がそのまま量産に耐えていたら、安価な画譜が広く出回る整版の時代は遅れ、独学で大陸の画風を吸収する画家も現れにくかったかもしれない。行き詰まりが、次の扉を押し開けたのである。
一冊の贅沢な活字本が退いた跡に、庶民の出版が育ち、その先に文人画の大成が待っていた。因果の糸は、技術の行き詰まりが次の飛躍を準備するという機微を、静かに告げている。
▶ 再現: https://inga.jkrs.jp/inga-emaki.html#if=sagabon