ロシアが択捉の近くまで下ってきたのは、ラッコを追った末だった

18世紀後半、ロシア人が千島列島を南へ下り、択捉のあたりまで姿を見せるようになった。のちに日本の北方をめぐる緊張の前触れとなるこの南下——その起点を189年さかのぼると、大義でも領土欲でもないものに行き着く。
毛皮である。
16世紀末、ロシアのコサックたちは良質な毛皮を求めてウラル山脈を越えた(ロシアのシベリア進出、1581)。テンやクロテンを追い、獲り尽くしては次の猟場へ——その東進が止まらず、彼らはついに太平洋岸のカムチャツカに到達する(1740)。大陸を横断したという地理的な土壌があったからこそ、ロシア人猟師は海を渡り、アリューシャン列島のラッコ毛皮を追う道を開いた(1750)。ところがアリューシャンでラッコが減り始めると、猟師たちは新たな猟場を求めて島から島へ伝い歩く——そうして千島列島を南下し、択捉周辺にまで達した(1770)。シベリア進出→太平洋岸到達→ラッコ毛皮交易→千島南下。三手、百八十九年。一頭の獣の毛皮を追う採算が、猟師の足を日本の目前まで運んだ。
データで確かめよう。因果絵巻から「ロシアのシベリア進出」を抜くと、消える出来事は6件。ロシアの太平洋岸到達も、ラッコ毛皮交易の拡大も、ロシアの千島列島南下も——さらにその先の、ラクスマン来航も、レザノフ来航と文化露寇も、ゴローウニン事件までが道連れになる。揺らぐ出来事は582件に及ぶ。
もしコサックが毛皮を追わなければ、太平洋岸への到達も、ラッコを追う渡海も、千島の南下もなく、日本の「北の脅威」という感覚そのものが生まれていなかったかもしれない。
国境へにじり寄る力は、しばしば大義ではなく、一商品の採算である。ラッコが減ったという猟場の事情が、めぐって鎖国の島国の北の守りを揺さぶった——歴史はずいぶん即物的にできている。
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