もしも百景 〔第203回〕
中山道の百姓一揆を招いたのは、街道の宿場の繁栄だった

1764年、中山道の沿道で数十万の農民が立ち上がった。伝馬騒動——江戸時代でも屈指の大規模一揆である。その怒りの根をたどると、意外にも街道の「繁栄」に行き着く。
宿場町の発達である。
1640年前後、参勤交代の常態化で大名行列が街道を往来するようになると、宿場は人と物であふれて発達した(宿場町の発達)。だが宿駅が常備する人足と伝馬だけでは、膨れ上がる輸送量を捌ききれない。そこで幕府は近隣の村々に人馬提供の夫役を割り当て、不足を補わせた——これが助郷役の制度化である(1694)。宿場の賑わいの裏で、周辺の百姓が肩代わりの負担を負う仕組みが根を張った。そしてその負担は年を追って重くなり、農作業の時間まで奪う。積もった不満がついに沿道一帯の一斉蜂起へ発展した——伝馬騒動だ。宿場町の発達→助郷役の制度化→伝馬騒動。二手、百二十四年。街道の繁栄が、そのまま近隣の村の疲弊へと裏返っていった。
データで確かめよう。因果絵巻から「宿場町の発達」を抜くと、消える出来事は2件。助郷役の制度化も、伝馬騒動も、そろって道連れになる。揺らぐ出来事は0件——この因果は広く波及するのではなく、街道という一本の線の上で完結する、閉じた鎖なのだ。
もし宿場が発達しなければ、助郷役という負担分配の仕組みも生まれず、それに耐えかねた農民の蜂起も起こらなかった。街道の華やぎは、はじめから近隣の村の肩に支えられていた。
繁栄の請求書は、しばしば繁栄の当事者ではなく、その隣に回される。因果の糸は、宿場の賑わいと村の一揆が同じ一本の糸の裏表であることを、淡々と告げている。
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