もしも百景 〔第202回〕

清が窓口を一港に絞ったのは、明の海禁の帰結だった

起点: 明の建国と海禁(1368年) ・ 結末: 清の広東貿易体制(1757年) ・ 消滅 5
清が窓口を一港に絞ったのは、明の海禁の帰結だった の挿絵(マカミ)

1757年、清はヨーロッパとの交易を広州ただ一港に押し込め、公行に統制させた。西洋がのちに「カントン体制」と呼ぶこの管理貿易——その389年前の起点も、同じ「閉ざす」政策にあった。

明の海禁である。

1368年、元を北へ追った朱元璋は漢族王朝の明を建て、民間の海上交易を禁じる海禁を敷いた(明の建国と海禁)。朝貢船以外の往来を認めないこの統制策こそが、皮肉にも密貿易と倭寇を呼び、財政難と結びついて明を内側から蝕む。その矛盾が農民反乱を招き、明は清に取って代わられた(明清交替、1644)。海の秩序を握った清は、明の残存勢力である鄭氏台湾を平定して沿岸を安定させ、遷界令による海禁を解いて展海令を発する(1684)。ところが海禁解除で対外交易が一気に膨らみ、管理が行き届かなくなった——だからこそ清朝は窓口を広東一港へ絞り込み、公行に握らせる貿易体制を敷いた(1757)。明の海禁→明清交替→展海令→広東貿易体制。三手、三百八十九年。閉じ、開き、また絞る。海をめぐる統制は、始点とよく似た終点へたどり着いた。

データで確かめよう。因果絵巻から「明の建国と海禁」を抜くと、消える出来事は5件。明清交替も、隠元と黄檗宗も、清の海禁解除(展海令)も、唐人屋敷の設置も、清の広東貿易体制までが道連れになる。揺らぐ出来事は922件に及ぶ。

もし明が海禁を敷かなければ、密貿易と倭寇が財政を蝕む筋道も、それが招いた明清交替も、清の展海令も、広東一港への集約も、まるごと別物になっていたかもしれない。東アジアの海を開閉させた振り子は、一つの禁令から動き出している。

海を閉ざす政策が、その反動と綻びを通じて、次の海を閉ざす政策を呼ぶ。因果の糸は、統制がまた統制を生む堂々巡りを、静かに映している。

▶ 再現: https://inga.jkrs.jp/inga-emaki.html#if=minkenkoku