糸の結び目 〔第180回〕

新田を開いたのは、鍬ではなく町人の財布だった

主役: 町人請負新田(1722年)
新田を開いたのは、鍬ではなく町人の財布だった の挿絵(マカミ)

1722年ごろ、町人請負新田という開発の形が各地に広がる。荒地や沼沢地を切り開くのは、農民の汗と鍬——そう思いがちだ。だがこの新しい開発の形を糸で遡ると、汗より先に、財布が三本の糸で結ばれている。

一本目は、政治の糸。享保の改革(1716)である。年貢増収を狙う八代将軍吉宗が新田開発を積極的に奨励し、広く出資者を募った。米で財政を立て直したい幕府が、みずから「土地に投資しませんか」と手を挙げたのだ。開発の門が、上から開かれた。

二本目は、経済の糸である。三都に蓄積した商人資本(1670)。大坂・京・江戸の商人のもとには、行き場を探す富が溜まっていた。金は稼ぐだけでなく、次に置く場所を必要とする。投資先を探す財布と、出資者を募る幕府とが、ちょうど向かい合っていた。

三本目は、開発の糸。新田開発と農業の発展(1660)である。藩や幕府が主導した開発で、開墾しやすい土地は先に切り開かれ尽くしていた。残るのは、用水路や干拓を要する難工事ばかり。もはや農民の手だけでは負えず、資本と技術に委ねる段階へと移っていたのだ。

三本が結ばれた瞬間が、町人請負新田だった。資金力を持つ都市の商人が開発費用を負担し、完成後の年貢納入まで請け負う。政治の奨励と、行き場を探す資本と、難工事化した土地——三本が一点で出会い、商人の富が農地開発へなだれ込んだ。新田開発は、こうして商人の投資事業になった。

そして結び目からは、糸が次代へ伸びる。開発新田をめぐって地主経営と小作関係が新たに生まれ、やがて農民層の分解と豪農(1750)へとつながっていく。

歴史の転換点とは、糸の結び目のことである。町人請負新田も、幕府の思惑と商人の余剰と地味の限界という、まるで別々の場所を歩いてきた三本の糸が、たまたま享保という一点で出会った投資事業にすぎない。開発を語るとき、私たちはつい鍬の絵を思い浮かべる。だが汗で開いたはずの田の下には、いつだって、しっかりと町人の帳簿が敷かれていたのである。

▶ 再現: https://inga-emaki.bucket-co.workers.dev/inga-emaki.html#ukeoishinden