消せなかった歴史 〔第136回〕

天保の改革は、始まることだけは避けられなかった

主役: 天保の改革(1841年)
天保の改革は、始まることだけは避けられなかった の挿絵(マカミ)

1841年、老中水野忠邦が緊縮と統制の大改革に踏み切った。天保の改革——株仲間解散が流通を混乱させ、上知令が反発で撤回に追い込まれ、わずか二年余りで頓挫した、あの失敗である。無能な老中の空回り、と切り捨てたくなる。だが、改革の「着手」だけは、誰がやっても避けられなかった。

三つの力が、同時に水野の背中を押していたからだ。一つ抜いてみよう。

もし大塩平八郎の乱(1837)がなかったら——それでも改革は始まる。元幕臣が反乱を起こした衝撃で綱紀粛正へ動く、その契機は消える。だが天保の飢饉(1833)が残る。全国的な凶作で農村が荒れ、年貢が減り、財政が傾いていた。金庫が空けば、緊縮は避けられない。

では飢饉を消したら——それでも始まる。今度はアヘン戦争(1840)が効く。清が英国に敗れた衝撃が対外的危機感を煽り、海防強化と内政引き締めを同時に迫る。外の嵐が、内の統制を呼ぶ。

ではアヘン戦争を消したら——それでも始まる。残った大塩の乱が、幕府中枢に「足元が崩れる」という恐怖を植えている。内側の反乱一つでも、水野は動かざるを得ない。

反乱、飢饉、外国の戦争。 一つは治安の話、一つは天災と経済の話、一つは国際情勢の話。まるで種類の違う三つの危機が、たまたま同じ数年に重なり、同じ老中の机に集まった。だから着手は消せない。因果絵巻の全1,002件を一つずつ消す実験をしても、天保の改革は一度も消えない。これが歴史の耐震構造だ。

皮肉なのはここからである。三つの力は改革を「始めさせる」ことには成功したが、「成功させる」ことには一切手を貸さなかった。 株仲間解散も上知令も、水野一人の判断だった。三本の柱は着手を固く支えたが、その先の手綱さばきまでは肩代わりしてくれない。歴史は開始を約束しながら、結末は本人に丸投げした。始まりだけが必然で、失敗は自前——改革者にとって、これほど酷い舞台装置もない。耐震構造が守るのは建物が建つことだけで、住み心地までは保証しない、ということだ。

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