もしも百景 〔第104回〕

遣唐使を終わらせたのは、安史の乱ではない

起点: 安史の乱(755年) ・ 結末: 宋の建国と商業革命(960年) ・ 消滅 2
遣唐使を終わらせたのは、安史の乱ではない の挿絵(マカミ)

安史の乱。755年、辺境の節度使・安禄山が挙兵し、盛唐を根こそぎ揺さぶった大反乱である。この乱が唐を衰えさせ、やがて日本は学ぶ相手を失って遣唐使をやめた——と、私たちは因果を結びがちだ。だが因果絵巻でこの乱を引き抜いてみると、意外なことが起きる。遣唐使の廃止は、消えないのである

安史の乱を抜いても、遣唐使をやめる日は別の理由で——航路の危険、莫大な費用、学ぶべきものの飽和で——やってきていた。ならば、この乱が本当に支えていたのは何か。データはまるで違う二つを指す。

一手目。乱を平定するのに疲弊した唐は、財政再建のため塩の専売に走り、生活必需品にまで重税をかけて民を締め上げた。その不満の受け皿になったのが、割高な官塩を出し抜く塩の密売で財を成した男の反乱——黄巣の乱(875)である。安史の乱が残した制度疲労と重税の構造が、そのまま百二十年後に第二の噴火を起こした。

二手目。黄巣の乱と節度使の割拠で唐がばらばらに解体した経験は、「二度と武人に国を裂かせない」という教訓を残す。その反省の上に、中央集権と文治主義を掲げる新王朝が立った。宋の建国と商業革命(960)である。

二手、205年。安史の乱が本当に生んだ子孫は、遣唐使の終わりではなく、宋という国だった

データで裏を取ろう。因果絵巻から「安史の乱」を抜くと、消える出来事は2件——黄巣の乱と、宋の建国である。揺らぐ出来事は742件。私たちが安史の乱に紐づけて記憶していた「遣唐使廃止」は、その2件に入っていない。関係が薄いのではなく、別の糸で吊られていたのだ。

皮肉なのは、日本が「もう学ぶものはない」と背を向けた唐が、その衰退のただ中で、次の千年を決める商業国家を孕んでいたことである。遣唐使をやめた日本が見送ったのは、老いた帝国ではなく、宋という新しい世界の胎動だったのかもしれない。原因の取り違えは、時に、見るべきものまで取り違えさせる

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