赤痢菌の発見者は、外国人教師の孫弟子である

1897年、志賀潔が赤痢菌を発見した。快挙の陰には師・北里柴三郎がおり、その師はドイツのコッホ——と、系譜はつい海外の巨人へ遡りたくなる。だが日本国内の因果をたどると、最初の一手は意外な人々にたどり着く。破格の月給で雇われた、外国人たちである。
お雇い外国人だ。
1872年、富国強兵と殖産興業を急ぐ政府には、近代技術を持つ人材が国内にほとんどいなかった。そこで大臣を上回る高給を用意し、英・仏・独から技師や学者を鉄道・鉱山・大学へと招いた。彼らが持ち込んだのは個別の技術にとどまらない。西洋の医学・理学を教える高等教育の枠組みそのものだった。
この教育の土台があってはじめて、ドイツのコッホのもとで破傷風の血清療法を確立した北里柴三郎が帰国しても受け皿ができる。政府内に席は無くとも、福澤諭吉らの支援で私立の伝染病研究所を興し(1892)、後進を育てられた。そして所員・志賀潔が、その設備と培養技術で赤痢患者の便から病原菌を分離する(1897)。病原体が長らく特定できずにいた赤痢の正体を、初めて突き止めた瞬間だった。発見された菌の属名には、彼の名にちなむ学名まで冠されている。
お雇い外国人→伝染病研究所→赤痢菌。 わずか二手、二十五年。数ある因果鎖のなかでも、とりわけ短い一直線だ。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「お雇い外国人の招聘」を抜くと、消える出来事は4件。伝染病研究所も、赤痢菌の発見も、日本地震学会の創設も、野口英世の細菌学も——静かに消える。揺らぐ出来事は6件。派手な連鎖ではない。だが消える4件はいずれも、日本が近代科学を自前で回し始めた原点ばかりである。
もし外国人を招かなかったら。近代の学問は独学と留学だけに頼り、国内に研究と教育の土台が育つのは大きく遅れただろう。北里が帰る場所も、志賀が覗く顕微鏡も、しばらく現れなかったかもしれない。
お雇い外国人は高給と引き換えに数年で去り、日本人技術者が育つと静かに姿を消した。名前を覚えられている者は少ない。だが彼らが据えた教育の礎の上で、教え子のそのまた弟子が世界的な発見をやってのけた。忘れられた高給取りたちは、日本の細菌学の、見えない祖父なのである。
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