小惑星探査機は、講和条約から飛び立った

はやぶさ。小惑星イトカワの砂粒を握りしめ、満身創痍で大気圏に燃え尽きた探査機。日本の宇宙技術がここに極まったと世界中が拍手した2010年の快挙だが、その最初の一歩をデータで遡ると、宇宙とはまるで無縁の一枚の外交文書に行き着く。
サンフランシスコ講和条約(1951年)である。
そもそも敗戦後の日本は、占領下で航空機とロケットの研究開発を全面的に禁じられていた。軍事転用を警戒され、翼をもぐように禁じられていたのだ。ところが講和条約が発効して独立を回復すると、この足かせが外れる。一手目、禁が解けたその隙間に真っ先に飛び込んだのが、東京大学の糸川英夫だった。彼が机の上で水平に発射した、全長わずか二十数センチの固体燃料ロケット——ペンシルロケット(1955年)である。ミサイルどころか、指ではじけそうな豆粒のような実験機だが、これこそが国産ロケット開発の紛れもない出発点になった。二手目、そこから一段ずつ積み上げられた固体燃料の技術と誘導制御の経験が半世紀かけて熟成し、ついに小惑星まで往復する探査機を生んだ。59年、たった二手の道のりである。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「サンフランシスコ講和条約」を抜くと、消える出来事は3件。ペンシルロケットが消え、はやぶさの帰還が消える。そして——日米安全保障条約もろとも消えるのだ。
ここに皮肉がある。占領を終わらせたはずのあの条約は、その同じ日に米軍の駐留を別の形で始めてもいた。独立と引き換えの基地であり、禁の解除と引き換えのロケットだった。つまり一枚の紙から、米軍基地と小惑星探査機が同時に芽吹いたのである。片方は今も沖縄に重くのしかかり、もう片方は星のかけらを地球に届けた。
もしあの講和がなければ。糸川のペンシルは飛ばず、日本の宇宙開発は起点そのものを失っていた。イトカワの砂は、永遠に地球へ届かなかったかもしれない。冷戦下の外交の妥協が、半世紀後に星のかけらを運んでくる——因果とは、かくも気の長い配達人である。
▶ 再現: https://inga-emaki.bucket-co.workers.dev/inga-emaki.html#if=kowa