もしも百景 〔第60回〕

三浦の乱の火種は、九十年前の対馬にまかれた

起点: 応永の外寇(1419年) ・ 結末: 三浦の乱(1510年) ・ 消滅 2
三浦の乱の火種は、九十年前の対馬にまかれた の挿絵(マカミ)

戦国期の1510年、朝鮮半島南岸の港町で、居留する日本人たちが武装蜂起した。三浦の乱である。日朝貿易を大きく縮ませたこの事件、その火種は、実は九十年前に対馬へまかれていた。

きっかけは、日本側が「襲われた」ことだった。

1419年、朝鮮は倭寇の根拠地とみなした対馬に大軍を差し向け、これを襲撃する——応永の外寇である。武力衝突を経験した対馬の宗氏と朝鮮は、しかし対立の再燃を望まなかった。両者は関係修復へと転じ、交渉のテーブルにつく。

ここから通交の制度が組み上がっていく。

1443年、対馬の宗貞盛は朝鮮と癸亥約条(嘉吉条約)を結んだ。宗氏に許す歳遣船を年50隻に制限し、渡航者には文引(渡航証明書)の携行を義務づける——貿易の量と手続きを細かく定めた枠組みである。日朝貿易は宗氏の統制のもとで安定し、対馬にとっては生命線ともいえる交易ルートが制度として保証された。だが安定は、別の火種を育てた。制度に守られて朝鮮の三浦(富山浦・薺浦・塩浦)に居留する日本人が、年を追って増えすぎたのだ。密貿易や治安の乱れを警戒した朝鮮が統制を強めると、恒居倭はこれに反発し、対馬の宗氏の支援を得て蜂起する——三浦の乱(1510)である。事件後、朝鮮は三浦を閉鎖して交易を制限し、日朝貿易は乱前に比べ大きく縮小した。襲撃から始まった通交が、九十一年後、また武力衝突で断ち切られたのである。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「応永の外寇」を抜くと、消える出来事は2件。癸亥約条も、三浦の乱も消える。揺らぐ出来事はゼロ。日朝関係を制度化したこの一連の流れは、まるごと一度の襲撃を出発点にしていたのだ。

もし応永の外寇がなければ、修復交渉も約条も生まれず、三浦に日本人が集住することもなく、乱も起きなかったかもしれない。

外交とは不思議なものだ。殴り合いから始まった関係が条約を生み、その条約がまた殴り合いを呼ぶ。日朝の通交は、平和な握手ではなく、対馬を焼いた火の粉から結ばれていた。国と国の縁は、いつもきれいには始まらない。

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