銭を絶やしたのは、日本最初の銭である

乾元大宝を最後に、日本の朝廷は250年ほど、銭を一枚も鋳造しなくなった。皇朝十二銭の途絶——律令国家の貨幣政策が事実上の敗北を認めた瞬間である。この幕引きの引き金を引いたのは、意外な犯人だった。その物語をいちばん最初に始めた、一枚の銭そのものである。
和同開珎の発行(708年)だ。
一手だけの、しかし残酷な因果だ。武蔵国から自然銅(和銅)が献上されたのを機に、律令政府は元号まで改めて和同開珎を発行し、銭による流通の仕組みを国土に持ち込もうとした。だが、ここに時限爆弾が仕込まれていた。国内の銅産出はやがて先細り、政府は改鋳のたびに銭を小さく、粗くしていく。質の落ちた銭は信用を失い、人々はしだいに受け取りを渋るようになった。始まりの一枚が敷いたレールの上を、十二種の銭は品質を落としながら走り、250年後、乾元大宝の地点で線路が尽きたのである。制度を起動したその同じ論理が、制度を殺した。しかも農村では物々交換が根強く、銭はついに都とその周辺を出きらなかった。裏づけとなる銅も、受け取ってくれる社会も乏しいまま発行された銭は、最初から細い綱の上を渡っていたのだ。政府が蓄銭叙位令のような普及策を重ねたこと自体が、放っておけば根づかなかったという証しでもある。
データで確かめよう。因果絵巻から「和同開珎の発行」を抜くと、消える出来事は3件。皇朝十二銭の途絶はもちろん、蓄銭叙位令(711)も、米・絹の物品貨幣化(960)も道連れになる。銭を貯めれば位を授けるという苦しまぎれの普及策も、銭が消えた後に米や絹が貨幣代わりを務めた世も、すべては「まず銭を発行した」という一手にぶら下がっていた。
もし政府が最初から銭を作らなければ。皇朝十二銭が「途絶える」こともまた、なかった。始めなければ、終わることもない——皮肉なほど当たり前のこの理屈が、日本の貨幣史の最初の250年を丸ごと括っている。
銭の国は、別の形で始まっていた。そしてその始まり方の中に、終わり方まで書き込まれていたのだ。
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