江戸の水道を引いたのは、信長である

1653年、多摩川の水が羽村から四谷大木戸まで、四十数キロを自然の勾配だけで流れ下った。玉川上水である。急増した江戸の人口をうるおすための一大土木事業——町人請負の玉川兄弟が、難工事の末に完成させた。江戸の暮らしを支えた上水道。その水源をさかのぼると、八十五年前、京へ攻め上った一人の武将に行き当たる。
信長の上洛である。
1568年、織田信長は足利義昭を奉じて京都に入り、天下布武を掲げた。だが急速な勢力拡大と強引な家臣統制が軋轢を生み、本能寺に斃れる(1582)。すかさず駆け戻った秀吉が山崎で光秀を破って後継の座をつかみ、天下統一(1590)へ。その豊臣政権が幼い秀頼を残して揺らぐと、空白を家康が関ヶ原(1600)で埋め、江戸幕府を開いた(1603)。
そこからは制度がものを言う。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし(1615)→武家諸法度→参勤交代の制度化(1635)。 大名は隔年で江戸に参勤し、家臣団は江戸に常駐する。人が増えれば、要るのは水だ。膨れ上がった飲料水の需要に応えるため、幕府は多摩川からの上水開削を命じた。天下布武の号令が、上水の水音に化けるまで九手、八十五年である。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「信長の上洛」を抜くと、消える出来事は32件。本能寺の変も、秀吉の天下統一も、関ヶ原も、江戸幕府の成立も、参勤交代も、そして玉川上水の開削までもが消える。揺らぐ出来事は616件。京へ入った信長の一歩が倒れれば、その後の八十年余が丸ごとぐらつく。
もし信長が上洛しなかったら。天下布武の連鎖は始まらず、秀吉も家康も台頭せず、参勤交代で江戸に人が集まることもなく、上水を引くほどの水需要そのものが生まれなかった。
天下を武で束ねようとした男の号令が、めぐりめぐって泰平の都の蛇口をひねる。刀の号令の果てが一杯の飲み水だとは、信長も思うまい。歴史は、勇ましい始まりを、拍子抜けするほど穏やかな結末へ運ぶことがある。
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