もしも百景 〔第34回〕

唐を内側から蝕んだのは、唐の強さである

起点: 唐の建国(618年) ・ 結末: 黄巣の乱と唐の衰退(875年) ・ 消滅 4
唐を内側から蝕んだのは、唐の強さである の挿絵(マカミ)

大帝国は、たいてい外敵に倒される。だが中国史上もっとも輝いた王朝・唐の衰退を因果の糸でたどると、刃を突き立てたのは異民族でも天災でもない。

唐自身の、強さである。

618年、李淵が長安で唐を建てた。均田制・租庸調・府兵制を整え、律・令・格・式の法典を完成させた律令の大帝国。周辺諸国がこぞって範とし、日本もまた遣唐使を送って、大化の改新をはじめ律令国家建設の制度的な手本として学んだ、あの「学ぶべき帝国」だ。

一手目。広すぎた版図が、反乱の芽を仕込む。あまりに広大な領域を守るため、唐は辺境に強大な軍団と、それを率いる節度使を置いた。強い国境防衛——その軍事力そのものが、やがて牙をむく。755年、節度使の安禄山が中央へ反旗をひるがえす。安史の乱である。

二手目。乱の後始末が、次の乱を育てる。安史の乱で傷んだ財政を立て直すため、唐は塩の専売など重税を民に課した。この収奪への不満が積もり、875年、塩の密売人・黄巣が挙兵する。反乱は約十年続き、唐の統治機構を実質的に崩壊させた。強さを支えた仕組みが、そのまま自壊の導火線だったのだ。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「唐の建国」を抜くと、消える出来事は4件。安史の乱も、黄巣の乱も、さらに「唐・新羅が百済を滅ぼす(660)」も、遠く「宋の建国と商業革命(960)」までが道連れに消える。揺らぐ出来事は854件。東アジアの中世は、長安の一政権に丸ごと吊られている。

反実仮想を一つ。もし唐が建たなかったら——遣唐使が学ぶべき帝国は、そもそも存在しなかった。手本がなければ、日本の律令国家建設も別の道をたどっただろう。皮肉なことに、私たちが「先進国・唐」から学んだ制度の多くは、その唐を自壊させた仕組みと同じ血を引いている。

強大な軍を置けば、その軍に背かれる。重税で立て直せば、その税に反かれる。強さとは、たいてい自分に返ってくる刃の別名だ。257年、二手の因果が静かにそう告げている。

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