ロシアが日本の戸を叩いたのは、毛皮のせいだった

江戸後期、日本の北の海に、たびたびロシア船が現れるようになる。ラクスマン、レザノフ、そしてゴローウニン事件(1811)。鎖国日本が初めて西洋の大国と正面から向き合ったこの緊張の始まりを遡ると、思想でも外交戦略でもないものに行き着く。
毛皮である。
16世紀末、ロシアのコサックたちは、良質な毛皮を求めてウラル山脈を越えた(1581)。テンやクロテンの毛皮は、当時のヨーロッパで莫大な富を生む。獣を追い、獲り尽くしては次の猟場へ——その東進が、止まらなかった。
シベリアを横断し続けた末、彼らはついに太平洋岸に到達する(1740)。ウラルから太平洋まで、およそ160年。国家の遠大な計画というより、毛皮という一商品の採算が、猟師と商人を一歩ずつ東へ押し出した結果だった。そして大陸の東の果てまで来てしまえば、次に視界へ入るのは千島と樺太、その先の日本だ。こうして通商を求めるラクスマンが根室に来航し(1792)、続くレザノフを幕府が半年待たせて冷遇した報復が樺太・択捉への襲撃(文化露寇)を招き、対露警戒のさなか、国後島に上陸した測量艦長ゴローウニンが捕らえられる。230年・4手をかけて、毛皮を追う猟師の足が、日本の玄関を叩いたのだ。
データで裏を取ろう。因果絵巻から「ロシアのシベリア進出」を抜くと、消える出来事は4件。太平洋岸到達も、ラクスマン来航も、文化露寇も、ゴローウニン事件も——日本の北方をめぐる緊張が、まるごと消える。揺らぐ出来事は510件にのぼる。
もしコサックが毛皮を追わなければ、根室に使者は現れず、抑留されたゴローウニンを高田屋嘉兵衛が取り持って解放へ導く場面も来なかった。日本の「北の脅威」という感覚そのものが、生まれていなかったかもしれない。
国境を動かすのは、しばしば大義ではなく、商品である。一枚の毛皮が、ユーラシアを横断して、鎖国の島国の警戒心に火をつけた——そう考えると、歴史はずいぶん即物的にできている。
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