もしも百景 〔第15回〕

長崎の唐船ラッシュは、フビライの国書から始まった

起点: 元の成立と日本招諭(1271年) ・ 結末: 清の海禁解除(展海令)(1684年) ・ 消滅 3
長崎の唐船ラッシュは、フビライの国書から始まった の挿絵(マカミ)

江戸中期、長崎の港は中国からの「唐船」でにぎわった。生糸に砂糖、書物に薬種——大量の唐物が、この一港を通じて日本へ流れ込む。鎖国下の数少ない窓口に、なぜこれほど船が押し寄せたのか。その号砲を鳴らしたのは、意外にも四百年前の大陸の皇帝である。

元寇でおなじみ、フビライ・ハンだ。

1271年、モンゴルの皇帝フビライは国号を「元」と定め、日本へ朝貢を求める国書を送りつけた。日本はこれを黙殺し、二度の元寇へと向かう——という話は誰もが知る。だが因果絵巻は、その先を追う。

モンゴルは陸と海の交易を広く奨励する開放的な帝国だった。だがその広域支配と異民族支配への反発が、やがて元末の大反乱を招く。これを制して興った漢族の王朝・明は、前代のやり方を裏返すように海を閉じた。民間人の海外渡航を禁じる、明の建国と海禁(1368)である。ところがこの海禁体制そのものが、抜け道としての密貿易や倭寇、そして貿易収入を絶たれた財政難という矛盾を抱え込み、王朝を内側から蝕んでいく。ため込んだ矛盾はやがて各地の農民反乱を呼び、ついに明清交替(1644)——漢族の明から満洲族の清へ、王朝が丸ごと入れ替わった。

新王朝の清も当初は海を閉じていたが、最後の抵抗勢力だった鄭氏の台湾を1683年に平定し、沿岸支配を安定させる。翌1684年、康熙帝は海禁を解く展海令を発した。堰が切れた。民間商船の渡航が解禁され、長崎へ向かう唐船の数は跳ね上がった。フビライの一手が、四百十三年をかけて、長崎の賑わいに着地したのである。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「元の成立と日本招諭」を抜くと、消える出来事は3件。明の海禁も、明清交替も、そして展海令も消える。三手つなぐだけで、大陸の四百年が日本の港と地続きになる。

日本史は、島国だけで完結してはいない。海の向こうの皇帝が求めた朝貢を、こちらが突っぱねたその一件も、めぐりめぐって長崎の帳簿に書き込まれていた。歴史の糸は、国境をあっさり越えてくる。

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