もしも百景 〔第9回〕

東大寺の大仏を建てたのは、目に見えぬウイルスだった

起点: 天然痘の大流行(735年) ・ 結末: 白河上皇の院政開始(1086年) ・ 消滅 13
東大寺の大仏を建てたのは、目に見えぬウイルスだった の挿絵(マカミ)

奈良の大仏。高さ約15メートル、銅と金で鋳られた盧舎那仏。修学旅行で誰もが一度は見上げる、あの巨大な仏である。聖武天皇の篤い仏心が生んだ、天平文化の到達点——そう習う。だが「なぜ聖武はそこまでしたのか」を突き詰めると、信仰の奥に一つの恐怖が横たわっている。

735年に列島を襲った、天然痘の大流行である。

大陸交流の経路から入り込んだ疫病は、免疫のない貴族層を次々に倒した。当時政権を握っていた藤原武智麻呂ら四兄弟までもが、わずかな間にそろって病死する。中枢の顔ぶれが一夜にして入れ替わるほどの打撃だった。有力者が病でばたばたと倒れる惨状を前に、聖武天皇は仏教の鎮護国家思想にすがり、国力を挙げて大仏を造らせた(752年開眼)。人の力ではどうにもならぬ疫病を、仏の力で鎮めようとしたのだ。

ここから連鎖が始まる。大仏という国家事業で仏教教団が政治の中枢に食い込み→道鏡が皇位に手を伸ばし(769)→懲りた桓武が長岡京・平安京へ遷都し→薬子の変で蔵人所が生まれ→藤原北家が応天門の変で他氏を排し→道長の摂関全盛→そして院政へ。 八手、三百五十一年。一つの疫病が、平安時代の政治の骨格をまるごと組み上げてしまう。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「天然痘の大流行」を抜くと、消える出来事は13件。国分寺建立の詔も、大仏の開眼も、道鏡事件も、菅原道真の左遷も、道長の栄華も、院政も——まとめて消える。揺らぐ出来事は787件にのぼる。

もしあの年、船が疫病を運んでこなかったら。藤原四兄弟は生き延びて政権を握り続け、聖武が大仏に国運を賭けることもなく、道鏡の台頭も遷都もなく、八世紀の政治は文字どおり別の顔ぶれで動いていただろう。奈良の大仏は、そもそも存在しなかったかもしれない。

歴史の主役は、時に肉眼では見えない。聖武天皇も、藤原氏も、道鏡も、教科書はこぞって人間の名を並べる。だが彼らを舞台に押し上げ、あるいは退場させ、平安という時代の骨格そのものを組み上げたのは、名前すら持たぬ一種の病原体だった——その皮肉を、盧舎那仏は千三百年ものあいだ、静かに見下ろし続けている。

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