もしも百景 〔第101回〕

名門を焼け出した火が、三百年かけて"庶民の流行歌"になった

起点: 応天門の変と他氏排斥(866年) ・ 結末: 『梁塵秘抄』と今様(1179年) ・ 消滅 4
名門を焼け出した火が、三百年かけて

藤原氏の摂関政治。娘を入内させ、外戚として権力を独占した——それは一族の周到な戦略の当然の帰結、と我々は思う。だが独占が「確定」した瞬間をデータで遡ると、婚姻でも策謀でもない、一件の不審火に行き着く。

応天門の炎である。

866年、平安京の応天門が焼け落ちた。犯人として大納言・伴善男が告発され、大伴(伴)氏と紀氏という古代以来の名門豪族が、証拠の乏しいまま朝廷から一掃される。藤原良房はこの政変を機に、皇族以外で初めて正式に摂政の座に就いた。放火の真相は今も藪の中だが、はっきりしているのは——藤原の前に立ちはだかっていたライバル貴族が、まとめて退場したという結果である。ここで独占の勝負は、事実上ついた。

ここからが将棋倒しだ。良房が示した「幼帝の外戚として摂政に就く」手口は北家の家業として受け継がれ、道長の代で娘を次々入内させる戦略が最も徹底した形に結実する(1016)。→ ところが独占が行き過ぎた反動で、外戚を持たぬ天皇が現れ、天皇家は摂関家に頼らず後継を定める「院政」を編み出す(1086)。→ そして院政で実権を握った上皇のひとり後白河が、公家社会の外の庶民歌に夢中になり、今様を蒐集して『梁塵秘抄』にまとめた(1179)。

三手、313年。貴族を蹴落とした政変が、巡り巡って庶民の流行歌集を残したのである。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「応天門の変と他氏排斥」を抜くと、消える出来事は4件。道長の摂関全盛も、白河院政も、菅原道真の左遷も、そして『梁塵秘抄』も道連れになる。揺らぐ出来事は769件。藤原の独占は、もっと緩やかに、もっと違う形で進んでいたはずだ。

皮肉なのは順序である。藤原が独占しすぎたからこそ天皇家は院政で反撃し、その院政で暇を得た帝が、政務の外の庶民歌に耽った。独占の完成が、独占を出し抜く仕組みと、そのまた副産物の歌集を生んだわけだ。名門を焼け出した一件の火は、三百年後、身分の垣根を越えた今様の節回しとなって、都の夜に響いていた。火事の煙の行方は、誰にも読めなかったのである。

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