江戸を焼き尽くした大火の火元は、190年前の京都にある

1657年、明暦の大火。江戸市街の大半を焼き、江戸城の天守までも灰にした、都市災害史に残る大火事だ。火元は本郷の本妙寺付近と伝わる。だが因果絵巻に火元をもう一段深く尋ねると、針は思わぬ方角を指す。京都、1467年。応仁の乱である。
190年、13手。将棋倒しを見ていこう。
応仁の乱で幕府と守護の権威が地に落ちる → 下剋上の風潮が全国に広がる → 家格に頼らぬ戦国大名が各地に割拠する → 尾張の織田信長が桶狭間で今川義元を討つ → 東の脅威が消え、信長が上洛を果たす → 家臣の不満が本能寺で爆発する → 即座に軍を返した秀吉が山崎で光秀を破り台頭する → やがて秀吉が天下を統一する → その政権が幼い秀頼を残して崩れ、家康が関ヶ原で空白を埋める → 江戸幕府が開かれる → 最後の対抗勢力を大坂の陣で滅ぼす → 再挙を封じる武家諸法度を発する → そこに家光が参勤交代を書き加える。
そして最後の一手。参勤交代で諸大名の屋敷と家臣団が江戸に集中し、木造家屋がひしめく人口過密都市ができあがった。燃え広がる構造が、先に完成していたのだ。あとは火の粉ひとつでいい。本妙寺から出た火は強風にあおられ、二日にわたって江戸を焼いた。
13手のうち、どこか一つでも駒の倒れ方が違えば、江戸という都市の姿もまた違っていたはずだ。だが糸は、律儀に一手ずつつながっている。将軍後継の私的な内輪もめが、百九十年後に江戸を焼く大火の遠因になる——因果とは、そういう気の長い仕掛けである。
データの裏取り。応仁の乱を抜くと、消える出来事は34件。下剋上の風潮も、戦国大名の登場も、桶狭間も、信長の上洛も、本能寺の変も——戦国乱世の骨格が根こそぎ消える。だが関ヶ原から先、江戸幕府も参勤交代も、そして明暦の大火そのものは消えない。江戸を過密都市に変えた統制には別の淵源もあり、燃え広がる街はそこからも生まれうるからだ。それでも揺らぐ出来事は869件にのぼる。
もし京都のあの大乱がなければ。実力がものを言う世は、別の道から始まっていたかもしれない。だが史実の糸は、応仁の乱から190年かけて、江戸へ火を運んだ。
火事の原因を「本妙寺の失火」で止めるのは、あまりに近視眼的である。もちろん、応仁の乱がなければ江戸が焼けなかった、と言い切るのは乱暴だ。だが、あの大乱が下剋上の扉を開け、戦国の争乱が天下統一を呼び、統一が江戸集住の仕組みを生んだという一本道は、確かに火種を運び続けた。因果の火は、一世紀半前の京都でとうにくすぶっていたのである。
▶ 再現: https://inga.jkrs.jp/inga-emaki.html#if=onin