もしも百景 〔第26回〕

藤原氏の天下は、遷都のオマケだった

起点: 平安京遷都(794年) ・ 結末: 菅原道真の左遷(901年) ・ 消滅 6
藤原氏の天下は、遷都のオマケだった の挿絵(マカミ)

平安時代といえば、藤原氏。摂政・関白を独占し、娘を次々と天皇の后に送り込んで栄華を極めた一族——というのが教科書の定番だ。だがその独占体制の起点をデータで遡ると、藤原氏の陰謀でも婚姻政策でもないものに行き着く。

引っ越しである。

794年、桓武天皇は乱れた政治を立て直すため、都を平安京へ移した。律令国家をもう一度組み直す、壮大なリセットのつもりだった。ところがこの遷都、思わぬ副作用を連れてくる。

桓武の没後、位を譲った平城太上天皇と弟の嵯峨天皇が対立する。二つの朝廷が並び立つ不安定な状態は、薬子の変(810)として爆発した。勝った嵯峨は、天皇の命令を機密に伝える蔵人所を新設する。ここまでは、非常事態への対処にすぎない。

問題は、この蔵人所という天皇側近ポストが、そのまま藤原北家の指定席になったことだ。良房はそこを足場に、応天門の変(866)で伴・紀といった古代以来の名門豪族を朝廷から一掃し、皇族以外で初めて摂政の座に就く。他氏を蹴落とす手口は世代を超えて受け継がれ、やがて時平が、異例の出世を遂げた菅原道真を讒言で大宰府へ追いやった(901)。天神様の悲劇も、元をたどれば引っ越しの余波である。

データで裏を取ろう。因果絵巻から「平安京遷都」を抜くと、消える出来事は6件。薬子の変も応天門の変も道真左遷も消え、その先の藤原道長の摂関全盛(1016)、白河上皇の院政開始(1086)、『梁塵秘抄』と今様(1179)まで道連れになる。3手・107年をかけて、遷都は藤原氏の天下を静かに準備していたのだ。揺らぐ出来事は771件にのぼる。

もし桓武が都を動かさなければ、この107年ぶんの因果はまるごと別の姿をとっていた。平安という時代の主役が藤原氏だったこと自体が、実は確定事項ではなかったのである。

新居に引っ越すと、当人も予想しない人間関係が動き出す——それは1200年前の帝も同じだった。ただしそのスケールが、一族の天下と一つの時代の名前だった、というだけの話である。

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